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眞田ブログリング


2006-05-28 (Sun)

『黒田如水』童門 冬二

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黒田如水
童門 冬二
小学館 1998-12
売り上げランキング : 138421
評価

by G-Tools , 2006/05/28


「頭が良すぎて、災いする」という事がある――それが黒田如水が “二流の人” と言われる理由である。
しかし、この戦国武将は人間関係の危機的状況も強靱な生命力と才幹、ユニークな行動力で切り抜けていった。
信長、秀吉、家康の三天下人にどのように仕え、なぜ名参謀、名補佐役と呼ばれるのか?
黒田如水(官兵衛)の劇的な生涯を新しい視点で描いた本作品は “良いリーダーとは?” と悩むビジネスマンに多くの示唆を与えてくれる。

僕は元々 黒田官兵衛孝高については詳しくない。増して隠居後の如水となると 号の名くらいは知っていても そもそも一体どうして急に隠居を決め込んだのかについてさえ 何の知識ももたずに過ごしてきた。あんなに明晰な頭脳をもった人が まだ充分働けそうなのに……と その「明晰な頭脳」こそが彼の宿痾だったことを知ったのは 竹中半兵衛を学ぶようになってからである。この物語は僕が初めて特に触れる官兵衛であり 題名通り隠居後の姿を描いたものだから その現役時代については未だ疎いということになる。
物語は 新本拠地となった筑前(福岡県)福崎の地名を 一族の故地:備前(岡山県)福岡の再興をかけて「福岡」に改めたい如水と それに伴い博多の地名までもが失われるのを嫌う博多商人:島井宗室との対立で幕を開ける。細々と詳細が語られる訳ではないが この豪毅な商人気質と 処世から離れること叶わない武士の鋭い眼光とは 時に反撥し時に共鳴し合いながら 作品の根底に終章まで横たわって存在する。一風変わったメインテーマではあるが 僕は素直に如水の足跡として読み進めた。
処世術で言うなら きっと細川藤孝(幽斎)や藤堂高虎の方が巧みだっただろう。勿論いつの時代でも世渡り上手な人というのは 半ばやっかみを含んだ冷たい視線を世間から浴びるものだけれど 如水の場合は常に自ら蒔いた種で窮地に追い込まれて居たように映る。だが 同時に彼は打たれ強い。現役時代の一年近い獄中体験は 彼の身から健康を奪った代わり 魂には強靱な生命力を授けたに違いない。そこから生まれる不屈の精神 それが無かったら たとえ有り余る知謀があっても生きて活かすことは出来ない。官兵衛を真に支えてきたのは この不屈の精神だったように想う。
隠居後の官兵衛 すなわち如水の最大の山場は やはり関ヶ原合戦の混乱に乗じて目論んだ九州征服にあるかと思う。不屈の精神が見せた乾坤一擲である。中央で悶着している間に 東軍として九州の西軍勢力を成敗し 勢いを駆って中国地方に上陸 毛利領を平らげ 天下人への餞としようというのだから 殆ど “空き巣狙い” だ。何しろ加藤清正の勢力以外 九州は悉く西軍に与して主力不在なのである。更には「天下人への餞」などと言うのは建前で 如水の本心は西軍勝利を願っている。西軍が勝てば 大将の石田三成に合戦後の各家を統べる力量は無い。その時こそ 己が天下を目指すのだ と。
が 残すは島津家の薩摩のみとなったところで 呆気なく関ヶ原合戦は終わってしまう。二度とは巡らぬだろう如水最大の好機も そして野望も共に潰える。たったの一日で天下分目の大決戦が東軍勝利で終わったことに落胆したのは 我らが上田城の眞田昌幸公だけではなかった訳である。冒頭にて如水と激論を交わした博多商人:宗室も 戦乱の波の内に気骨と気概とを失い やがて逝く。
だが 総てを悟った如水は寧ろ爽やかで在る。宗室とその精神の死によって勝負がつかず終いとなっていた地名についても 福崎は福岡に・博多は博多のまま という謂わば妥協案が採られる。如水にしてみれば 相手(に気概)無くしては勝負も何もあったものではないという処だが 僕の眼には漸く宿痾を克服したかのように潔かった。そんな僕の眼差しを支持するかのように 如水辞世の句が作品の幕を引く:
「おもいおく 言の葉なくてついに行く 道はまよわじ なるにまかせて」
――大往生だと想う。

Theme : 歴史・時代小説  >> 本・雑誌

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黒田官兵衛
黒田孝高

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